西寧の美食街

     外に出ると、やはり寒かったが、雪が降っていた昨日ほどではない。
    郵便局に手紙を出した後、僕が向かった先は、市場。
    たくさんの露店や屋台、食堂などが軒を連ねた、食べ物関係の商店街だ。
    そして、この食品商店街を貫くように、服屋だらけの衣料品商店街もある。

     時間も、お昼時なので、食品商店街で何か食べてみようと、アーケードになっている通りを歩いた。
    アーケードの下には、3本の線のように店が並んでいて、真ん中は、きっちりと包装されている、お供え物にするのだろうか?という感じに箱に入った、果物を売っている、果物屋と乾物屋が並んでいて、両側には、食堂がいくつも並んでいる。

    僕は餃子屋の店を覗いた。
    広い、大きな鉄板の上には、いくつもの餃子が並び、野球のホームベースくらいの大きなコテで、兄ちゃんが“ヒョイ”と、こんがりと焼けた餃子をひっくり返している。中国で焼き餃子って、珍しい。
    今まで僕が見たのは、水餃子か、揚げ餃子だ。

    餃子屋の隣では、威勢のいいオバチャンが、中華鍋を手にし、ビーフンを炒めていた。
    「美味しそう。」と見ていると、オバチャンと目が合い、1皿いくらなのかと聞いた。
    1皿、4元2角(約60円)だったので、1皿を注文して、他のお客さんと同じように、順番待ちをした。

    中華鍋の中に、油がたっぷりと入って、モヤシが入り、数種類の刻んだ野菜が入り、多少の肉も入って、
    その上に、大量の白いビーフンがのっかた。オバチャンは、中華鍋を前後に動かしながら、4種類の調味料を入れて、さらに前後に鍋を動かし、菜箸で、ビーフンが鍋にひっつかないように素早く、かきまぜ炒めている。そして、醤油のような物を少量入れて、白いビーフンが、うす茶色になったところで、終了。
    炒め上がった、ビーフンを4つのお皿に分けて、その上に薄焼き玉子を少し乗せて、完成。
    「うん。美味しい。」

    上左から、串揚げ屋台、羊肉屋、飲むヨーグルト、美食街の屋台。

    これだけで、けっこうお腹いっぱいになりましたが、せっかくなので、もっと食います。
    僕は、肉屋、魚屋、八百屋が連なる通りの角にある、中華菓子屋台へ行き、

    ゴマ団子(5角)を一つ買って、それを食べながら、アーケード食品商店街を抜け出した。

     この通りも、食堂や屋台が多い。
    その中で、僕は、ジャガイモを千切りにし、かき揚げのように揚げた物を食べた。
    そして、この通りの出口、または入口の所にある、回族がやっている、ヨーグルトの屋台で、一見プリンにも見える、ちょっと固めのヨーグルトを食べた。
    これが、またメッチャ美味しくて、西寧滞在中、毎日食べることになった。
    これで昼食終了。この間、ざっと1時間。

    1時間も食べ続けると、さすがにもう動く気には、なれなかったので、それからは、西寧書城(本屋)でネットをしたり、スーパーへ行って、食品やマヨネーズなんか買ってしまいました。
    中国では、マヨネーズって、けっこう高級品なんですね。思っていたよりも高かったです。

     そうこうしているうちに、再び腹が減ってきたので、晩飯を食べに行くことになった。
    晩飯は、中国銀行の向かいにある、(※口馬)忠美食街へとくり出した。
    通りは、女性用の安物アクセサリーの露店が並び、その先には、さまざまな食関係の店が並び、肉屋では、鳥が丸ごと焼かれ、売っている店や、羊の頭部を茹でたままの状態で売っていたりと、中国の肉屋は、迫力満点です。

    左上から、八百屋、鳥の丸焼き、焼き芋屋、中華クレープ屋

    そんな通りの先には、八百屋が並んでいる、八百屋と言っても、日本とは違い、複数の野菜が並べられて売られているのではなく、唐辛子屋だったり、ネギ屋だったりと、単品での出店です。
    唐辛子屋のオバチャンの威勢のいい声が聞こえる。
    「リャンクワイ!リャンクワイ!(2元)」と叫びのような、声が聞こえる。
    通りの真ん中には、食べ物屋台が所狭しと並んでいる。
    肉、魚を揚げた屋台。さまざまな食材を串に刺して、素揚げにして食べる、屋台。
    ワラビ餅のような物を売っている、屋台。砂鍋(土鍋)屋台など、さまざまな屋台が並んでいる。

    僕は、どこの屋台へ行こうかと、悩みに悩んだあげく、砂鍋屋台へ。
    寒い西寧で熱い鍋は、とても嬉しかったが、野外ではなく、室内なら、なお良かったのに。
    土鍋の中には、羊肉と野菜がたっぷりと入っていた。
    次は、回族(イスラム)の屋台で、串揚げを食べた。
    串に刺された、食材を素揚げにして、お好みで、山椒、唐辛子をかけて食べる。
    僕が食べたのは、イカ、砂肝、ブロッコリーそれに羊肉(1本=2元)
    油で揚げられた、各種串揚げには、つぶしたピーナッツがふりかけられていて、イカがとくに絶品でした。


     西寧へ来て、まだ少しですが、食はかなり豊富で楽しいです。
    明日も、ここでご飯を食べよう。何を食べようか、今から楽しみです。
    ほんと、目も心も腹も潤す、美食街です。

    ※口へんに馬




    ラマと出会った日

     今日は、西寧から南西約28kmの所にある、小さな街、湟中(ルシャル)にある、クンブム(タール寺)へ行ってきた。クンブム(タール寺)とは、1577年に完成した、チベット仏教のゲルク派の6大寺の一つで、ダライ・ラマ14世やパンチェン・ラマ10世などチベット仏教の有力者達が学んだ、壮大な寺院です。

     朝8時のバスに乗って、クンブムに到着した時には、9時を過ぎていた。
    30kmに満たない距離を1時間以上もかかるなんて、周りの迷惑を考えず、車やバスのことなんか、お構いなしに行われた、道路工事のせいです。

     さて、クンブム(タール寺)に着いた僕は、入場料30元(約400円)払って、入場。
    かつての大寺院も、今やすっかりと観光地となっている模様。
    そんな観光地、タール寺の紹介で、必ず出てくる、『※善逝(ぜんぜい)八塔』は、想像していたよりかは、小さくこぢんまりとしていたが、八仏塔の前で、チベット式のお祈り、五体投地をしている人達もいて、ここは、中国では観光地となっているが、チベット人にとっては、今も聖地のような所なんだと、感じていた。

    クンブム(タール寺)の善逝八塔

     僕は、ブラブラと、とても広い境内を歩き出した。
    ここ、クンブムの建物は『蔵漢折衷様式』と呼ばれていて、チベット風と中国風が混ざり合った珍しい建築物も見応えがあった。しかし、クンブムでは、建物の中および、主要建造物は撮影禁止らしいが、カムのゴンパで、バシバシと写真を撮っていたので、何で撮影禁止やねん。
    入場料を払ってねんから、写真くらい撮らせろ。と言う感じで、
    撮影禁止の看板を無視していたが、たまに僧侶がやって来て、「ダメだ、ダメだ」という仕草をしたときは、写真は撮れなかった。
    しかし、何で撮影禁止なのでしょうか?

    大金瓦殿という、建物の前では、老若男女のチベット人が、横一列に並び、激しく五体投地を繰り返す光景を見たときには、やっぱり、ここはチベット人にとっては、ものすごく神聖な場所なのだと、認識させられたし、撮影禁止の意味も少しは、理解することが出来た。

    (左)蔵漢折衷様式の建物(右)お堂の中の仏像

     この辺りから、僕は、チベット人巡礼者の一団に、ひっつくように、お堂を見学するようになった。
    なぜならば、やはり中国人(漢族)に間違われることが多く、ここの僧侶の態度が冷たすぎるからだった。
    この一団は、チベット自治区にある、ギャンツェから来た一団だった。
    ギャンツェから、西寧までは、かなりの距離があり、1日や2日で来られる距離ではない。
    そこまでして、ここへ来るなんて、やはりクンブムは、それなりの寺院なのだ。

     この巡礼者の人達は、皆、大量の1元札、5角札、1角札を持ってきていて、それを柱や壁に貼り付け、また、祭壇の前では、手を合わせ、お札を額に当て、賽銭として、お札を置いていた。
    僕は、お金を置いたりはしなかったが、そんな彼等の仕草を見つめ、たまに同じように手を合わせたりしていた。
    やがて彼等と少しずつだが話しをするようになり、僕は本格的に、この一団に加わった。
    マニ車を回す列に加わったり、疲れたら一緒に休憩して、飴や干し葡萄をもらって、一緒に食べたりした。
    全てのお堂を巡礼し終わったときには、僕なりには、すっかりと溶け込んだような感じでいた。

     今度は、何処へ行くのだろう?と考えていると、一団の男が「これからラマ(高僧)に会いに行く。」と言う。僕は今までカム地方のゴンパをいくつか見てきたが、そのような偉い僧侶には、会ったことがない。
    これが初めての経験となるので、気持ちがかなり高ぶった。

    左:巡礼者の人達 右:バターで作られた彫刻

    観光地となっている場所を巻くような感じで、坂道を歩き、ラマがいらっしゃる建物の前に着いた。
    門の前には、鎖で繋がれている大きなチベット犬が、睨みを利かせ、吠えまくる。
    なかなか入れない僕を尻目に、あっさりと次々、入っていったので、置き去りにされる前に、横にいた人にひっつくようにして、僕もやっと中に入れた。

     一つの寺院のように、形成された中庭がある、この建物の一角に、ラマが座っている部屋がある。
    僕達は、ここでラマに謁見するわけだが、ガラス越しにラマの姿が見えた。
    ラマは、僕の想像とは裏腹に、少年だった。

    僕達の順番は、すぐに来た。
    僕を含め、総勢12名が部屋に入った。
    巡礼者の一団は、部屋に入り、小豆色の袈裟をまとった少年を見た瞬間、やや平常心を失っているのが、僕には、すぐにわかった。
    僕は、少年がどれほど偉く、凄いのかは、当然、彼等ほど理解はしていないが、彼等、そしてラマにも失礼のないようにしなければという気持ちでいた。

    僕は、まだ神々しさよりも、あどけなさが残る少年の前で五体投地を数回した。
    少年のラマは、僕達の前で、長い経をしっかりと唱えている。
    僕は、それを聞きながら、いくらチベットのしきたりとは言え、小さいのに、頑張ってるなと思うが、
    そんなことを思うのは、僕が日本人で、特に不自由なく少年時代を過ごしてきたからだとも思った。
    ラマは、経を唱え終わると、僕達に赤い紐を一人一人に手渡しをした。
    もちろん僕も、もらいました。


     ラマとの謁見も果たし、クンブム(タール寺)を後にした、僕達一団は、昼食を食べに、食堂へと向かった。一団のオバチャンが、僕の名前を聞き、それからみんな僕のことを「テツヤ、テツヤ」と呼んでくれるようになった。
    店を決めるのには、時間がかかった。
    湟中の街は、回族の食堂が多く、米を置いていない食堂が多いらしく、なかなか決まらない。
    やっと店が決まり、僕は5人くらいの人が頼んだ、牛肉面を食べ、それからみんなから、おかずをもらい、ご飯と一緒に、食べた。

    みんなとの楽しい食事も終わり、僕はそろそろ西寧へ帰ると言い。
    それから、みんなのいるギャンツェへ、絶対に行くから。と言って、みんなと別れ、バスに乗った。
    みんなに出会えたから良かったし、楽しかったし、貴重な経験もさせてもらった。
    みんな陽気で明るく、優しく、本当にありがとう。“トゥジェチェ”

    ※善逝(ぜんぜい)とは、「悟りに達した人」というような意味。