国境の街、ダルツェンド

     成都に4泊した後、かつてのチベットと中国との国境の街、ダルツェンド(康定)へ向かった。
    午前8時過ぎに、新南門バスターミナルを出発したバスは、成都の街を走り抜け、四川省とチベット自治区を結ぶ、川蔵公路を西へ向かって走り、そして4時間半後には、かつてのチベットと中国との国境であった二郎山が見えるところまでやって来た。
    道路事情は昨年とは違い、すっかりと舗装されていたので、まさかこれだけの時間で、ここまで来られるとはと、かなり驚いた。

    バスの車窓から眺める山には、まだ雪が積もっていて、この先の二郎山トンネル(全長4,100m)を抜けるとチベット文化圏入りかと思うと、「いよいよ来たか。」と胸が高鳴り、先ほどまでの睡魔は吹き飛んだ。
    そして長いトンネルを抜け、バスはチベット・カム地方の「カンゼ(甘孜)チベット族自治州」に入り、バスが成都を出発してから、7時間後、ダルツェンドに到着した。

    ダルツェンド(康定)は、甘孜チベット族自治州の州都で、標高は2,500mほどの谷間の川沿いに出来た、狭い街ですが、かつてはチベットと中国との交易の中継地として栄えた街だ。

    さて、バスターミナルを出た俺は、昨年も泊まった、バスターミナル近くの宿へ行くが、なんか昨年よりも寂れた感じがする。確か、昨年は工事中だったはずだが、普通、1年でこんなにも雰囲気が変わるものなのか?
    とりあえず荷物も重いので、4階にある、トイレ共同の部屋(40元)に1泊することにして、散歩がてら他の宿を見てみようかと思っている。

    街の洗濯場にて

     遅い昼食を食べに、宿の通りに面した一軒の食堂へ入り、豚足と昆布のスープと白飯を食べた。
    豚足は柔らかくなるまで煮てあり、スープも美味い。
    俺が一生懸命にご飯を食べていると、店の客数人に声をかけられ、「おまえ何処から来た?何人だ?」と尋ねられ、知っている中国語や筆談を使って、説明したし、また俺からも、彼等に「何族?」などと質問し、
    チベット族だと言う彼等から、チベット語を教えてもらうことになったが、いったいどんな言葉を教えられているのか、なんかただ単に、遊ばれているだけのような気もするが・・・

    そんな彼等に教えてもらって、使った言葉は「カレシュ(さようなら)」という言葉だった。
    この「カレシュ」は、去る人が残る人に向かって言う言葉で、ここでは俺が、店を出るときに、店にいる彼等に向かって言った言葉です。ちなみに、彼等は、俺に「カレペ」と言った。
    「カレペ」は去る人(俺)に向かって言う、さようならと言う言葉です。

     店を後にした俺は、少しだけ街散策がてら、宿探しをしたが、「また明日来てくれ。」や「外国人はダメだ。」などと言われ、すんなりと宿は決まらず、「ダルツェンドには、どうせ2、3泊しかしないから。」と諦めて、結局、今宿泊している宿の別の部屋へと明日、変わることに落ち着いた。

     山間の谷間に出来たこの街は、去年とは違って、高級そうなホテルが建っていたりと、街の風景は、ガラリとまではいかないが、少しずつ拡張してゆく様子が旅行者の俺でも感じられたが、大通りを逸れ、路地に入れば、市場があり、チベット人はそこでヤクの腸に包まれたバターを売っていたり、赤いダシェーを頭に巻いたチベタンにも出会えたりと、街は中国っぽくなっていくが、まだまだここはチベットの街だと感じられることが出来た。

    (左)通りにて (右)市場にて

     そして翌日、部屋を4階の共同トイレの部屋から、1階のトイレ&シャワー付きの部屋に変えてもらったが、値段は同じ40元だった。だいたい、部屋にトイレや洗面所が付くと、値段は高くなるものだが、あえて俺は、何も言わずに宿代を払った。

    荷物を1階の部屋に移し、外出。俺が向かった先は、「公安局外事科」
    出発前にネットで調べた情報では、古い情報だったが、ここでチベット自治区にあるチャムド(昌都)の外国人旅行証がもらえるということが書いてあったので、もらえればラッキーだと思い、トライしてみた。

    結果は、ダメでした。
    係りの人の話によると、確かに以前は、旅行証を発行していた時期もあったが、2004年の今は、発行させることは出来ず、もしチャムドへ行きたければ、成都からの団体ツアーでラサへ行き、そこからまたツアーでチャムドへ行け。と言うことでした。
    「そんなことを言わずに、くれ。」と粘りましたが、どうあがいても無理なようなので、俺は諦めた。
    チャムド(昌都)へは、行けるのであれば是非、行ってみたいと思っていたが、無理をしてまで行きたいとは思っていなかったので、俺もこれで諦めがついた。

     公安局を出て、次に向かったのが、近くにあるチベット寺院、『安覚寺(ンガチュ・ゴンパ)』
    今回の旅で、初めて訪れたゴンパ(寺院)がこのゴンパだ。
    規模は小さいが、造りはは立派で、中へ入ればたくさんの金色の仏像をバターランプが照らしていた。
    俺はチベット式に時計回りで、ガラス越しに見える仏像を見てまわった。
    ガラスで仕切られていたこともあり、昨年に行った、リタン(理塘)ゴンパのような臭いは、きつくなく、チベット寺院初心者の俺でも、十分に耐えられる臭いだった。
    僧侶の写真も撮らせてもらって、トゥジェチェ!

    (左)安覚寺(ンガチュ・ゴンパ)と(上)寺院の中。

     この後、銀行へ行き、US20ドルを中国元に両替し、164元を手に入れた。
    成都を発つ前に、ダルツェンドから西寧に着くまでは、両替が出来ないという情報を得ていたので、T/C(トラベラーズ・チェック)やカードを使って、約2,000元(約28,000円)ほど両替をしたが、これから約2週間、所持金が保つか不安だったので、両替ができるときに、少しでもしておこうと云うわけです。

     今夜の夕食は、川の側にあるブルーシートで覆われた、串焼き屋台へ。
    コンニャク、厚揚げ、羊肉などの串焼きを5種類ほど頼んだが、どれもに唐辛子の粉がかかっていたので、辛すぎて、みんな同じ味に感じた。
    辛さで舌がマヒした状態で、店を後にし少しばかり川沿いの道を歩いていると、地元の小学生に声をかけられて、筆談に挑戦するが、お互いに通じ合うことはなく、あえなく退散。
    部屋へ帰り、散策中に買った、お香を焚いて、トイレに設置し、以前、中国で買ったスイッチとコンセントが一体になったソケットに、さきほど買った、電球を装着。
    これでかなり部屋の雰囲気が変わった。

    オレンジ色の照明の中、ビールを飲みながら、友達に手紙を書き、次はタウ、カンゼへ行くことを記した。
    ここまで上海、成都、康定(ダルツェンド)は、昨年の逆ルートでしたが、ここから先は、未体験です。
    これから先は、標高も高くなっていき、寒さも厳しくなるので、少しばかり不安だが、それ以上に気持ちはワクワクしている。





    ルームメイトはチベット人

     次の街、タウ(道孚)への期待や不安などが交差し、昨夜は、あまり眠れなかったが、早朝の6時15分には、宿の隣にあるバスターミナルへと行き、バスに乗り込むが、すでに満席の状態であり、僕が最後の乗客らしく、重いリュックを係りの人に預け、僕は最後尾の席へ座った。

    バスの出発は、午前6時30分だが、乗客が全員乗車したので、珍しく出発時間を待たずに、街灯の代わりにたき火が焚かれた暗いバスターミナルを出発した。

     バスは、まだ夜が明けていないダルツェンドの街を走り抜け、グングンと標高を上げていった。
    車内は、窮屈なうえ、大音量のチベタン・ディスコ音楽が鳴り響いている。
    朝一番から、狭い、ウルサイで、頭が痛い。なんて思いながら、外の闇を見つめていた。
    そして、やっと夜が明け、辺りが明るくなり、僕は窓の外へ目をやると、周りは雪、銀世界一色という風景が目に飛び込んできた。
    今回の旅では、当然、雪景色に遭遇することは解ってはいたが、まさかこんなに早くに、遭遇することになるとは・・・
    しかも今は、本格的に雪が降っている。アスファルトの道路には粉雪が舞い、とても幻想的な風景を作り出していた。

    やがてバスは、標高4,298mの折多山の峠(ダルド・ラ)を越えた。
    タウへ行くのに、こんなにも標高の高いところを通るとは、思っていなかったので、本人の自覚のなさのおかげで、高山病というものには縁が無く、峠を越えたバスは、今は標高を下げ、下り坂を走っている。

    ラガン・ゴンパ(塔公)

    しかし、このバスは、やたらと上下に揺れている。
    道路事情が良くないこともあるが、+アルファ、バスがボロイのだ。
    あまりの上下の揺れに、お尻が宙を浮くこと、十数回。体の中がかき回されたような気分だ。
    そしてバスは、ラガン・ゴンパで、トイレ休憩をした後、八美(ガルタル)という所で、昼休憩のため停車。
    他の乗客は近くの食堂へ行くが、俺は、目の前にある串焼き屋台で、ウインナーなどの串焼きを3本食べた。

    八美あたりから、馬に乗ったカムパ達を多く見るようになったのと、太い丸太と石造りのチベット式家屋、高原の風景に点在するヤクや羊。そんな風景を眺めていると、やっとチベットへ来たのだなと感じる。

     そしてバスは、出発から約7時間後の午後2時前に、今日の目的地のタウ(道孚)に到着した。
    道路が悪すぎて、体が何度も宙に浮き、体が痛いし、かなり疲れたが、今から宿探しをしなければならない。
    成都、康定(ダルツェンド)は、再訪した街だったので、宿探しは楽でしたが、今回はそういうわけにはいきませんでした。

     とりあえず看板が目に入った、「香巴拉賓館」へ行ってみるが、建物が立派なわりには、部屋はボロく、従業員も性格の悪さが顔ににじみ出ていて、かなり印象は悪いが、1泊=40元だったので、とりあえず1泊することを告げたが、やっぱり気が進まないので、お金を払わずに、荷物だけ置いて、すぐに他の宿を探した。

    バスが停まった間の前も宿屋だったので、そこを見せてもらうと、1ベッド=35元のツインルームだが、トイレとシャワーが付いていて、部屋もさっきの宿とは天と地までは言わないが、清潔感があったので、ここに泊まることを告げ、さっそく、さっきの宿へ帰り、荷物を取り、キャンセルしたいと言うと、露骨に嫌な顔をし、キャンセル料は20元だと、偉そうに言ってくるが、20元払って、あなた達の嫌な顔を見なくて済むのならば、安いもんだと思い、さっさと20元払って、バイバイ。
    宿探しは、ちゃんとしなければいけませんね。20元、損した。

    左:道端の商店。チベットの民族衣装のチュパを着た人達
    右:缶で作ったマニ車を回す老人

     宿を替えて、やっと落ち着いたので、今度はお腹を落ち着けるために、食堂へ行き、炒飯を食べた。
    これで気分的に、落ち着いたので、カメラをぶら下げ、街を歩いた。

     タウの街は、標高3,040mにある、ダルツェンド(康定)よりかは、狭い街だ。
    どうやら、バス停の目の前の通りが、メインロードのようで、コンクリート作りの低い商店が建ち並んでいるが、外観はチベタンテイストが施されていて、この装飾や色使いがなければ、ただの中国の田舎の街と変わらないように感じてしまう。
    川沿いの通りには、最近に出来たのであろうと思われる、建物が連なっています。
    人々は、漢族っぽい人も見かけたが、圧倒的にチベット人が多いと思う。
    チベットの服、チュパや既婚女性が身につける、縞模様の「パンデン」というエプロンを着用しているご婦人方や、ほっぺが真っ赤なチベット人、そしてここにも赤いダシェーを頭に巻いて、チュパを片方の腕を出して着た人達がたくさんいる。
    そんな彼等が、このメインロードを賑わせている。

     この通りから、脇へと入ると、チベット人の住宅街があり、足が自然にそっちへと向かった。
    タウは材木の産地として名高く、ここの住宅は太い丸太をふんだんに使った家ばかりだ。
    外壁は石造りだが、その石壁には、クリーム色のペンキが塗られていて、茶色の木材とのコントラストが、かわいらしくて素敵に見える。
    家は、斜面に建ち並んでいたので、坂道を上り、もっと奥へと向かうが、予想通り、体が大きい、番犬のチベット犬が、俺に向かって吠え、俺の行く手を阻む。
    出来るだけ犬にかかわりたくない俺は、あきらめて坂を下り、迂回する感じで、住宅街を歩いていると、明日に行こうと思っていた、ニンツォ・ゴンパ(霊雀寺)にたどり着いてしまった。
    明日のお楽しみに、入ろうかどうしようか迷っていると、ゴンパの門の前にいる僧侶が、手招きをするので、
    俺はゴンパへ入ることにした。

    タウのチベット人の住宅

     ニンツォ・ゴンパの外観は、周りの住宅と同じように、石壁がクリーム色に塗ってあり、太い丸太をふんだんに使っている。僧侶がお堂の鍵を開けてくれて、僕を案内してくれた。
    そのお堂の中には、金色で石が散りばめられた、豪華絢爛なチョルテン(仏塔)と、ダライ・ラマ14世の写真が、額に入って飾られていた。
    「確か、チベットでは、ダライ・ラマ14世の写真は禁止のはずでは?」と身振り手振り、それに筆談を使って尋ねてみたが、僧侶は「ここはチベット自治区ではなく、四川省だから良いのだ。」と答えた。
    俺は、ここも、チベット自治区もどっちも同じ民族が住んでいて、同じ文化で、同じ宗教なのに、なんてあいまいな線引きなのだ。と思ってしまった。
    チベット人が、それを上手に利用していると思うけども、これも一種の中国政府へのささやかなる抵抗のようにも感じた。

     僧侶は、チョルテンとダライ・ラマ14世の写真の前で、チベット式のお祈りの仕方、「五体投地」を始めた。そして、俺にもやってみろって感じで、見よう見まねで、「五体投地」やってみた。
    僕がすると、非常に違和感があるのが、自分でも分かるが、チベットを旅している実感もまた感じることが出来た。

    この僧侶は、僕に他にもたくさんのお堂を見せてくれた。
    ダライ・ラマ13世の写真が飾られた部屋や、お祭りのときに使う魔物のようなお面がたくさん飾られた部屋や、バターで作られた色鮮やかな、仏像など、どれもが初めて目にするもが多く、驚きと感動の連続である。
    ダライ・ラマ14世が寝たという、玉座も見せてもらった。
    かなりゆっくりとゴンパを見学することが出来て、非常に嬉しく、良い経験となった。
    僧侶に「トゥジェチェ(ありがとう)」と言い、ゴンパを後にして、宿へと向かった。

    バターで作られた色鮮やかな仏像(上)
    ニンツォ・ゴンパ(右)

     部屋はシャワーがあって、お湯もガンガン出るので、早速シャワーを浴びて、きれいさっぱり。
    時刻は、夕方の5時だ。もうこの時間だったら、誰も来ないだろうと、今まで遠慮して使ってた部屋を目一杯使い、ベッドに寝ころびながら、今日の日記を書いていると、突然にドアが開き、今日ここに泊まるという男が入ってきた。

    確かこの兄ちゃんは、バスで一緒だったはずだ。
    兄ちゃんは笑顔で俺に、「相部屋になるけど良いかな?」と尋ねてきたので、「ok」と返事をして、彼が1日限りの、ルームメイトとなった。
    そして不思議なことに、この兄ちゃんの荷物は、ペットボトルの水、1本だけである。
    この人は、何しにタウへ来たのだろう?

    お互いに自己紹介をして、俺が持っているガイドブックを見ながら、話しをしていた。
    兄ちゃんは、丹巴(ロンダク)出身の公務員だそうだ。名前は忘れた。
    6時頃に、「飯を食いに行かないか?」と一緒に近くの食堂へ。
    店の人に、兄ちゃんが食材を差し、注文している。どんな物が出てくるのだろう?かなり楽しみです。
    そして出てきた料理は、3品。それに白飯。どれもが美味しくて、もう腹一杯です。

    夕食を兄ちゃんのおごりでご馳走になったので、今度は俺がビールでも一緒に飲もうと、ビールを1本買ったが、兄ちゃんは、ビールが飲めないらしく、結局一人で飲むことになった。
    夜には、水道も電気も止まったので、ガイドブックを見ながらの会話を終え、寝ることにした。

    明日の朝、今度こそ、兄ちゃんに夕食のお礼に、朝飯をご馳走しようと思いながら、疲れ切った体を横にすると、瞬く間に深い眠りについた。
    そして翌朝の午前7時、俺が目を覚ますと、兄ちゃんはもういなかった。