大きなチョルテンの下で

     いつもは目が覚めると、すぐに朝ご飯を食べるのだが、今朝は珍しく、お腹が空いてなくて、起きてしばらくの間、ベッドに寝転がりながら、昨日の日記の続きを書いていた。
    昨日は、いろんな出来事があったので、たくさん日記を書くことが出来たけど、今日は、どんなことが待ち受けているのか?日記帳兼スケッチブックに日記を書き終えた頃には、すっかりお腹も減り、昨日、昼ご飯を食べた食堂へ行き、小さな肉まんを3個と、お粥を食べた。

     それにしても今日は、昨日とは違って、メインロードの人通りが少なく、閑散としている。
    まだ朝の9時だからだろうか?それとも、今日が日曜日だからなのか?
    チュパを着たチベタンがいなければ、太い丸太を使い、茶色や朱色と彩られた、チベット特有の賑やかな色使いをした街も、なんだか寂しそうにさえも見える。

    僕は、朝から、ワイワイ、ガヤガヤとした光景を期待していたのだが、まぁしょうがないと、一度、部屋に戻り、スケッチブックを持って、昨日、バスに乗って、この街にはいるときに見えた、巨大な“チョルテン”(チベット式の仏塔)がある方へ向かった。

     僕は今回の旅で、1ヶ国に1枚の絵を描いてみようと、出発前から考えていたので、今回の巨大チョルテンの絵が、この企画の第1回目である。
    どうせ急ぐ必要のない旅なので、絵でも描きながら、じっくりその物と向き合ってみようと言うことです。

    タウの巨大なチョルテンは、広い広場の中にあり、チョルテンは、マニ車(※1)の回廊に囲まれるようにそびえ立っていた。その近くには、大きなマニ塚(※2)もあり、僕もチベタンにならって、空き缶で作られた、マニ車を回しながらコルラ(※3)した。

    タウの大きなチョルテン

     広場に着いた僕は、どういう構図で絵を描こうかと、考えながら、大きなチョルテンの近くへ行ってみたり、または離れて、遠くから眺めてみたりと、繰り返し歩いていた。
    全体的にチョルテンが入るような構図にすることにして、位置を決め、「さぁ、描くぜ!」と意気込み、僕は腰を下ろし、絵を描き始めた。

    僕が絵を描き始めて、しばらく経った頃、地元の子供が数人ばかり寄ってきて、「この人なにやっての?」って感じで、まだあまり線が描けていないスケッチブックを覗き込んでいる。
    更には、その様子を見ていた大人達が、今度は僕の周りに集まりだし、ついには僧侶までもがやって来て、みんなして、スケッチブックを覗き込んでいく。

    まだ描き始めたばかりだったので、大人達はすぐに離れていったが、子供達の興味は失せることなく、いつまで経っても離れようとせず、僕の周りで遊び、たまにスケッチブックを覗き込み、少しずつ完成に近づいてゆく絵を楽しそうに、眺めている。
    そんな子供達は、みんなほっぺたが真っ赤で、鼻水垂らして、かわいいです。

     絵を描き始めてから2時間ほど経った頃、この地を取材に来ていた、韓国のTV局の人達の目に留まり、
    なんと!インタビューをされてしまった。男の人から名刺をもらうと、ソウルのTV局と書いてあったので、
    俺、韓国のテレビに出るのかな?
    インタビューといっても簡単な質問だけで、「何処から来たのか?」「何故ここで絵を描いているのか?」
    「どのような道順で旅を進めるのか?」といったもんでした。
    僕は、それに対して、漢字と知っている中国語と英単語を混ぜて、答えたが、果たして通じたのだろうか?

    左:ダライラマ14世とパンチェンラマ10世
    右:大きなチョルテンの中で

     そして絵を描き始めてから、3時間ほどが経った。
    そろそろ疲れてきたので、はやく切り上げたいが、周りの子供達や大人達が、ずっと見ているので、止めるに止められず、「あー寒い。タバコ吸いてー。」と日本語で独り言を言いながら、ひたすら手を動かし、大きなチョルテンを描いていた。
    そしてやっと、チョルテンが描き上がってきた頃、突然に、今まで周りで遊んでいた子供達や、暇そうなオッチャン達など、一人の子供を除いて、みんな何処かへ行ってしまった。

    僕には何が何だか分からず、「お参りの時間なのか?」「雨が降ってきそうだから?」と一人残った少年に話しかけてみたが、上手く伝わらなかったのか、少年は一言も喋らない。
    少年は、何も喋らなかったが、僕に手招きをして、さっきまで絵を描いていた、大きなチョルテンへと導かれ、僕は、少年の背中を追うように、付いていき、大きなチョルテンの中へと入っていた。


     中には、たくさんのマニ車が並んでいて、僕も少年と同じように時計回りにマニ車を回し、コルラをして、
    次は、チョルテンに登り、そこにある12個の祠を両手を合わせながら見てまわった。
    祠には、仏像と共に、パンチェン・ラマ10世の写真やダライ・ラマ14世の写真も飾られていた。

    次は、大きなチョルテンを囲んでいるマニ車の回廊を歩いた。
    ここにあるマニ車は、とても大きく、マニ車が回っているときは少し力を入れれば、すんなりと回るが、止まっているときには、ものすごく力がいり、重くてなかなか回らなかった。
    そして、僕と少年が、たくさんのマニ車を回し終え、回廊を出たときには、外は大雨が降っていた。

    大きなマニ車を回す人達

     二人とも軒先で、呆然と空を見上げていると、やがて雨は雹(ひょう)となり、小さな氷の固まりが空から降ってきた。こんな現象、初めて見ました。

    僕と少年は、しばらく雨宿りをすることになり、軒先に積まれている丸太の束の上に座り、空を見上げながら雨が止むのをただ、じっと待っていた。それにしても寒い。絵を描いていたときとは違い、ものすごく寒いです。標高が高いので、天気は変わりやすいが、変わりすぎです。

    無口な少年も僕と同じように、空を見上げ、雨が止むのを待っている。
    この少年は、僕が絵を描き始めた頃、最初からずっと側にいた少年だが、まだ一言も喋らない。
    もしかしたら喋られないのかとも思っていたが、時折みせる少年の少し笑ったような表情をみると、そんなことはどうでも良くなり、僕も笑顔を少年に返した。

     やがて雨は上がり、僕と少年は大きなチョルテンがある広場を後にするように歩き出した。
    少年は、さようならと言う感じで僕に手を振って、僕も少年に手を振って、「トゥジェチェ(ありがとう)」と言うと、少年は走って何処かへ行ってしまった。
    最後まで少年は、喋ることはなかったが、とても素敵な時間を俺に与えてくれた、いい出会いだった。

    スケッチ中に出会った子供達

     宿へ戻る途中、民家の軒先で子供の写真を撮っていると、民家の扉が開き、老婆が手招きをして、僕を家の中へと招いてくれた。
    これが今回の旅、初めてのチベット人のお宅訪問となる。
    明かりは、裸電球が一つだけで、少し薄暗く、木の壁には、クロスの代わりに、新聞紙が貼られてある。
    土間の中には、テーブルと長イスが置かれてあり、大人、子供を入れて、5、6人ほどいただろうか?
    僕は、その人達に、さっきまで描いていたチョルテンの絵を見せると、上手やねぇー、なんてことを言っていたのでしょうか?みんな喜んでくれていたので、そんな風に言われていたのだと勝手に思い込むことにした。

    老婆が、僕にテーブルに置かれている、包(肉まんの具がないやつ)を食べなさいと勧めてくれたので、昼飯を食っていない僕は、ありがたくそれをいただき、もしかしたらバター茶が出てくるのかと不安でしたが、温かいお茶が出てきたので、安心し、冷え切った体を温めることができた。

    ところが、僕がおいしくお茶を飲んでいると、突然、オバチャンが僕が飲んでいるお茶の中に、大量のバターを入れるではないか!“ボト、ボト”と入れられたバターは、熱いお茶の中で、みるみる溶けてゆき、あの油乳臭いにおいが、鼻を突き刺した。
    一口飲んでみるが、“オエッ”あかん、飲めません。
    この臭いと味には、慣れなければいけないのですが、体がどうしても受け入れてくれない。
    僕は、これ以上お茶を飲むことなく、包と漬け物を食べ続けた。
    今は、とても水が飲みたいです。


    (※1)マニ車とは、円筒の中に経文を納めたもので、1回まわすと経文を1回読んだことになる。
    (※2)マニ塚とは、石や岩に経文を彫ったもので、それをたくさん積み上げたもの。
    (※3)コルラとは、寺院や神聖な場所などの周囲を巡ること。仏教徒は時計回りで、ボン教徒は反時計回りで回る。




    100%チベタン

    「ふっー、やっと着いたな。」って感じだ。タウ(道孚)からカンゼ(甘孜)までバスで7時間。
    バスの故障さえなければ、もっと早くに着いていたのに。ほんま、道が悪いし、バスがボロすぎる。

     タウを午後1時30分に出て、エメラルドグリーンの川沿いのアスファルト道は、所々に陥没があり、その影響で体が上下前後にと飛び跳ねる。
    俺は、この状況に慣れようと努力をしてみるが、諦める方が早いことに気づき、すんなり諦めた。
    おかげで体はクタクタでしたが、景色はものすごく良かった。

    荒野のような大地や山、道を歩いている、ヤクや馬、そして梅のような花も咲いていて、ただいまチベット・カム地方は春爛漫です。

    カンゼへ着いた時には、すっかり夜となり、宿は、バスターミナルに併設されている『金(牛毛)牛酒店』(GOLDEN YAK HOTEL)にすかさずチェック・インした。
    ここもタウと同じように、1ベッドいくらという金額設定だったが、とても疲れていたので、同居人はいて欲しくないので、1ベッド=35元のところ、1部屋を60元(約800円)でかりることにした。
    部屋は、かなりキレイで、その上お湯も出るので、嬉しい限りでございます。

    タウからカンゼへ向かう途中の風景

    重いリュックを床に置き、イスに座って、インスタントコーヒーを飲みながら、タバコを一本吸った後、昼飯を食べていない僕は、近くの食堂へ夕食を食べに行った。本日のメニューは、チンジャオロースと白飯です。
    と、そこへチベットの民族衣装をバリバリにまとった一団、9人が店に入ってきた。

     この一団のいでたちは、100%チベタンって感じで、毛の着いた帽子を被り、汚れたチュパを羽織り、ジャラジャラとしたアクセサリーを身につけており、男は体格ががっちりとしているし、なんとなく目つきも鋭くて恐い。と言うのが、俺の彼等に対しての第一印象であった。

    そんな彼等は、中国人とも見えない、外国人の俺に興味を示し、話しかけてきたが、言葉は通じず、結局は、漢族の店員が間に入っての筆談となり、彼等が何で、カンゼに来たのかなど、あまり理解出来なかったが、彼等一団は、数日、カンゼに滞在するということがわかった。
    俺も、数日間、カンゼに滞在するので、また会えればいいなと思っていたが、今回のカンゼ滞在が、彼等一団と共にするとは、思っても見なかった。

    カンゼ滞在中に出会った、一団。

     翌日、朝から雪が降る中、カメラ片手に、街散策へとくりだした俺は、住宅街に足を踏み入れ、犬に吠えられビビリながら、ここを何とか抜け出そうと歩き、退散するように住宅街を抜けると、雪が積もった山々が見渡せる場所にでた。4,000mは越えているであろう、山々の麓には、大地が広がり、家々が点在し、チョルテンが建っている。そんな風景を見るたびに、すごいところへ来たんだなと、つくづく感じる。

    天気が良ければもっと景色は良かったのですが、今日は、あいにくの曇り空で時々雪でございます。
    俺は、街中で買った10元のマフラーを首に巻き、また歩いて、街中へと戻った。

     街へと戻り、再び人々の写真を撮り始めるが、大人、特に女性は嫌がる人が多く、必然的に子供達の写真が多くなってゆく。
    そんな時、昨晩食堂で出会った、チベタン集団と再会。みんな昨晩と同様に、民族衣装のチュパを羽織り、アクセサリージャラジャラで、バッチシと彼等なりに決まっています。

    こういうときカメラは良い、コミュニケーションの道具となり、写真を撮るに連れて、彼等とも仲良くなっていった。彼等との撮影会を済まし、昼飯に誘われ、俺は彼等一団と食堂へ入った。
    昨日は、何も持っていなかったが、今日はチベットのガイドブックやチベットの歴史の本、「知の再発見、チベット」を持ってきていたので、なにかと役に立ちそうです。

    俺は、彼等一団と同じ、伸びた麺の上に、肉と野菜がのっかている、拉麺を食べながら、みんなにガイドブックの地図を見せて、タウからカンゼへ来て、次はデルゲ(徳格)へ行くと説明し、自己紹介がてらに、自分の似顔絵を描いて、みんなに見せると、一同、大爆笑!!!
    そしたら、次は俺を描いてくれやらと、何人かの似顔絵に挑戦するが、上手には描けなかったが、皆さん再び、大爆笑!まぁ、みんな喜んでくれたので良かったです。

    食堂にて一団全員

    次は、「知の再発見、チベット」を見せると、みんなの顔色が変わった。
    そこには、文化大革命(※1)で破壊された寺院の写真やダライラマ14世の亡命時の写真、ラサ暴動の写真も載っていた。
    現在のダライラマ14世の写真を見つけると、彼等は本に載っている女性の写真と同じように、その本を額にあてていた。


     彼等一団の中には、少年が一人いて、その少年が、俺が持っている、ボールペンに興味を示したので、仲良くなったお礼にと、俺は少年にそのボールペンをプレゼントしたら、少年は、嬉しそうに手に落書きを描き始め、やがてインクが出なくなったボールペンは、なんと爪楊枝代わりになってしまった。
    昼ご飯を食べ、タバコの交換などをして、お湯を飲み終えた俺と一団の楽しい昼食は終わり、みんなに「ありがとう、トゥジェチェ」と手を合わせ、彼等と別れた。

     一度、部屋に戻りしばらく休んでいたが、空が晴れてきて、山々がとてもキレイに見えだしたので、再び外に出て、山の写真を撮った後、街へ戻ると、一軒の店の前で、さきほどの少年が一人立っていた。
    少年に話しかけると、中から一団の男が出てきて、こっちへ来いと手招きをする。
    俺は、一瞬、少年が入れないような店!?なんて思ってしまいましたが、そんなことはなく、単なるチベット喫茶店でした。
    色鮮やかなでカラフルな店内には、チベタン・ディスコミュージックのビデオCDが流れていて、バター茶ではなく、熱いお茶を飲んだ。

    甘孜(カンゼ)の街並み

     店を出た後、彼等一団は、家に帰るのか?それとも何処かへ行くのか?カンゼを発つことになっていて、男がトラックの運チャンに「乗せてくれないか?」と交渉している。
    交渉が成立したのか、彼等一団は、3つのグループに分かれることとなった。
    みんながバラバラになるのが、とても寂しかったのか、少年の表情は、とても悲しそうで今にも泣きそうな表情だ。俺は、少年と手をつなぎ、最初に乗った人達を見送った。

    彼等の間で、どのような会話がなされたのか、俺には分からないが、少年は泣いている。
    俺は、少年と手を繋いだまま、残った二人のオッサンとしばらく一緒にいたが、俺も最後まで彼等と一緒にいると寂しくなるので、俺は帰ると言って、手を振って彼等と別れた。
    オッサン二人も大きく手を振ってくれたが、少年は後ろを向いたまま、振り返ることはなかった。

    カンゼでは、現地の人達と、このような時間を過ごすことが出来て、本当に楽しかったし、嬉しかった。
    もし、誰かに、チベット文化圏の旅をするなら、何処がお勧めかと聞かれたら、俺は迷わずに「カンゼ」と答える。


    (※1)文化大革命・・・故毛沢東主席が「資本主義の道を歩む実権派打倒」のため発動した1966年5月〜 
               1976年10月の間、行われていた政治運動。
               多数の指導者や知識人、民衆が迫害され、死者1千万人、被害者1億人とも言われて
               いる。宗教が徹底的に否定され、寺院や仏像などの宗教的文化財が破壊された。
               特にチベットでは、その影響が大きく、僧侶が殺害、投獄されたりした。