ラサへの道(ゴルムド〜ラサ)

    準備は整った。
    いつもの移動の時と同じように、リュックを背負い、そして、手に持ったビニール袋の中には、列車内で食べる食料、カップラーメン1個とソーセージ1本、そしてバナナが2本。
    夕方の5時に部屋を出た僕は、西寧駅(火車站)へ向かった。
    駅構内は、人々で溢れかえっている。
    竹の天秤棒を担いだ人達や、これから何処かへ行こうとしている人達。
    午後6時頃、出発の約20分前には、公安職員によって、人々は2列に並ばされ、僕もその列に加わった。

     そして僕は、列車に乗り込んだ。
    車内の壁などが木で出来ており、三段ベッドの一番上が、かなり狭く、上海〜成都へ行く、列車よりも古さが感じられた。
    俺は、一番下のベッドの床下にリュックを押し込み、自分のベッドである、一番下のベッドに腰を下ろした。
    下のベッドは、三段ベッドの中で、一番広い空間があり、上段のベッドの人達も、とりあえずは一番下のベッドに腰を下ろし、車内で持て余す時間をビールを飲んだり、または買ってきたカップラーメンを食べたりしながら雑談をし、時間を潰す。
    僕も、まだ出発して間がないが、買ってきたカップラーメンにソーセージを入れて食べ、そしてビールを一本飲んだ。

     僕は、中国人(漢族)と間違われることが多く、車内の人も、僕に何のためらいもなく話しかけてくる。
    そして、僕が日本人だと解ると、みんなからの質問攻めにあい、なかなかくつろげない。
    僕の中国語は英語と同じくらい、堪能ではないので、会話のやりとりもままならず、やがて俺は、周りのことは、お構いなしに勝手に寝た。

    西寧駅

    そして目が覚めると朝になっていた。
    7時間くらいは寝ただろうか?夜行列車ってこともあり、車窓からの風景を楽しむこともなく、午前8時30分に、列車は格尓木(ゴルムド)駅に到着した。
    「さぁ、行くぜ!ラサへ。」俺は、ゴルムドには泊まるつもりは、最初っからない。
    別に、この街で観たい物や、やりたいこともない。ただの通過点にすぎない。
    ただ、ラサへ行くために、列車に乗ってここへ来ただけなので、駅を出たら、すぐにラサ(拉薩)へ行く車を探すつもりだ。


     格尓木(ゴルムド)駅を出た俺に、すかさず怪しげな兄ちゃんが声をかけてきた。
    「ラサへ行くのか?」兄ちゃんは、リュックを背負ったそ俺に、そう尋ねた。
    公安に密告をして、賄賂をもらう輩もいるらしいので、カムフラージュとして、敦煌へ行くと、答えても良かったが、俺は素直に「ラサへ行くにはいくらだ。」と聞いた。
    胡散臭い兄ちゃんは、バスで800元(約1万円)と言ってきた。
    俺の中では、バスは、一番避けたい乗り物だった。

    なぜならば、遅い。と言うこともあるが、胡散臭い奴等と公安がグルになって、俺みたいな旅行者から、賄賂を取ったりすることもあると聞いていたからだ。それに他の乗客がいるというのも、俺にとってはイヤだった。誰かに何かあれば、他のヤツが迷惑を被る。
    バスに違法外国人を乗せるとは、そういうことが起こる可能性も高い。

    ただでさえ、俺の旅、始まって以来の過酷な道中になるかもしれないので、
    出来れば、ランクル(ランドクルーザー)で、足早に、ササット、拉薩に行きたいものだ。
    しかし、駅前にランクルなんぞ、待機しているわけもなく、探すのもめんどくさいし、ゴルムドなんかにも長居はしたくない。
    俺は、800元からどれくらい値段が下がるのかと、彼等と値段交渉を始めた。
    700元には、すんなりと下がったが、600元にするには、時間がかかった。
    500元では、向こう(彼等)が、俺にバイバイと言ってきたので、600元で話しは着いたが、やっぱバスはイヤだった。何か他の方法は、ないものかと、考えていたら、これから外国人を乗せる段取りを電話でしていた胡散臭い奴等が、「今日は、パスポートチェックがあるから、外国人は乗せられない。」と言ってきた。

    こんなトラックで行きました。

     一般的に、ラサ(拉薩)へ行くには、“入境許可書”というものが必要であり、それは旅行会社を通してしか取得することが出来ず、それを持っていない者は、違法入境者となってしまう。

    何故、俺が入境許可書を持たずに、ラサに行くのかと言うと、単に馬鹿らしいからである。
    何故、入境許可書が必要なのかと言うと、チベット自治区は、他の中国の地域とは違い、外国人には、あまり行ってほしくはない地域だからだと思う。
    興味のある方は、各個人で調べていただくとして、そんな物、持たずともチベット自治区を個人で旅している者は、大勢いる。
    俺も、その中の一人として、今後、チベット自治区を旅するつもりだ。
    ラサに着いても、入境許可書を調べられたりすることは、まず無いらしいので、よけいに馬鹿馬鹿しい。


     話しは戻り、バスには乗せられないと言ってきた彼等は、今度は俺に「トラックは?」と聞いてきた。
    トラックは、バスなみに遅いと聞いているが、人数が少ない分、気は楽だが、やはり遅いので、気が進まなかったが、奴等につきまとわれたのが、運の尽き。
    奴等から離れようと思い、再び駅前へ行き、ゆで卵2個を買い、他の車を探そうと思い、駅前をうろつくが、奴等は俺を見つけ、しぶとく声をかけてくるので、仕方なくトラックを見に行った。

    タクシーでトラック駐車場まで行き、タクシー代は、奴等持ち。
    そこで僕は、ドライバーを紹介され、トラックを見せてもらった瞬間、これなら絶対にラサに行けると、
    自信というか、確信を持った。時間はかかるが、この人達となら、絶対にラサに行けると。
    本当は、ランクルが良かったが、もう駅前に戻るのも、面倒くさいので、トラックに乗ることを告げ、600元のうち、半分の300元を奴等に払い、リュックをトラックの荷台にくくりつけて、僕はトラックの助手席に乗った。

    崑崙山脈らしい。(ゴルムド〜ラサ間)




    ラサへの道(ゴルムド〜ラサ)

     俺を乗せたトラックは、午前9時15分に、ラサを目指し走り出した。
    俺は助手席に座り、さきほど駅前で買った、ゆで卵を食べながら、運転手がかけている中国POPS音楽を聴いていた。そして、ボーッと景色を見ながら、2個目を食べていた。
    トラックの運転手は2人で、2人ともウイグル(新疆ウイグル自治区)の人だ。
    どうも臨夏(リンシア)から、ウイグルの人と、接することが多くなってきた。
    出発してから、まだ間もないというのに、風景はガラリと変わり、人工的な街から、無骨で荒い、大地が広がっている。遠くには山も見えるが、山も大地と同じ色をしている。

     ゴルムドを出発してから、30分後くらいに、検問があった。
    運転手の兄ちゃんは、俺に「大丈夫だ。」と言うので、俺は普通に助手席に座ったままでいた。
    そして何事もなく、検問を通過して、近くのガソリンスタンドへ。
    ここで、運転手はウイグル人ドライバー仲間と出会い、一緒にラサまで行こうなんてことを言っている。
    彼等にとっては、嬉しい出会いであったようだが、俺には、この出会いは、迷惑な出会いだった。

    今まで、快調に走っていた俺を乗せたトラックは、仲間と出会ってから一変し、まるでじゃれ合うように走っている。仲間のトラックは、スピードが出ないのか、この信号もない、高速道路のような青蔵公路をチンタラと走っている。おかげで俺が乗っているトラックは、仲間のトラックの姿が見えなくなると、速度を落としたり、停車して待っていたりしている。

    青蔵高原と建設中の鉄道

    その間、俺は外を見るしかなかった。
    道路脇には、ランドクルーザーが見事に大破した姿を見ることも、しばしばあったが、
    他の車やトラックが、悠々と追い越していくのを見ると、やっぱりイライラする。
    しかし、運転手を怒らせてしまっては、いけないなと思い、ガマンをしていた。

     ゴルムド〜ラサ間を結ぶ、青蔵公路がある青蔵高原は、山と草原、そして乾いた大地以外は、何もないが、2004年4月の時点では、鉄道が建設中である。この世界一高所にある鉄道(※)は、2006年の夏に開通予定で、俺が見た限りでは青海省内は、ほぼ完成しているように見えた。
    (※)鉄道は予定通り、2006年7月に開通

     トラックが、ゴルムドを出発してから、すでに12時間が経ったが、まだ青海省から出てはいない。
    僕が居る地点は、標高どれくらいなのだろうか?
    道中、たまに雪が降ったり、吹雪になったり、快晴になったりと、天候がめまぐるしく変わる。
    このトラックの助手席は、右側にあり、日本の車とは、反対の位置にある。
    僕は、右側の風景をずっと眺めていると、道路の脇には、2,800何とかと表記があるので、僕はずっとそれが標高だと思っていて、これくらいの標高じゃ、高山病にはならないな。と、道路脇の表記を見るたびに思っていたが、吹雪の中、運転手が僕に、「ほら、見てみな。」と左側の道路脇の表記を指さした。

    そこには、標高5,000mと書いてある。
    えっ!じゃぁ、アレは?と僕は、右側の道路脇の表記を指して、聞いた。
    僕が、ずっと標高だと思って見ていた表記は、何処かを拠点とした距離だった。

    この道中、公安に見つかる以外に、高山病というのが、僕が恐れていたことだったが、“病は気から”何て言葉通り、高山病も気からなんでしょうか?それとも体が今までの旅で、慣れてしまったのだろうか?

    僕の体には、多少の息苦しさ以外は、何も変化がない。

    ←こんな道をひたすら走る。

     やがて日も暮れ、闇のような夜に入っていった。
    そして気温も下がり、標高5,000m付近では、雪が降り、道路の凍結が始まった。
    そのため動くことが出来ないトラックや車が多くなり、渋滞が発生した。
    寒さのため、凍ったトラックの近くで火を焚いて、温めている人達もいたが、そんなことをして、大丈夫なのかと、見ているこっちが恐くなる。

    僕が乗っているトラックの運転手は、この渋滞に対して、見事なまでの対処をしていた。
    自分勝手に先を急ぎ、入り乱れた状況を見て、車やトラックを1列に並べるように誘導し、空きスペースを作っていき、ゆっくりと僕達のトラックを進めていた。
    しかし、昼間もっと速く走っていれば、こんな状況に巻き込まれることはなかったのにと、僕は、運転手から借りた毛布にうずくまりながら、闇と雪の世界に散らばる星空を見つめ、そしてこの状況を見つめていた。
    僕が乗ったトラックは、午後11時頃から、翌日の午前3時頃まで、この渋滞の中にいた。

     2時間ほど眠っただろうか?午前6時頃に目が覚めたときには、チベット自治区のアムド(安多)に着いていた。22時間近く走って、やっとチベット自治区に入ったかと思うと、かなりムカツイテきた。遅すぎる。
    その後、4時間ほどトラックは走り、ナクチュ(那曲)へと着いて、朝食を食べた。
    ナクチュは、ジェクンドのような感じの街で、大きな街だった。


    ダムシュン。もうすぐラサです。

     そして僕は、ナクチュを出た辺りから、イライラしている自分を表に出しはじめた。
    運転手に「もっと速度を上げて、走ってくれ」「早くラサへ行こう」などと言い出した。
    そして地図を見せて、26時間走って、まだここやねんぞ!仲良しドライブは、止めて早くラサに行ってくれ!と、この時の僕は、あまりにもチンタラと走る運転手に対して、相当イライラしていたのだ。
    そんな気持ちが伝わったのか、トラックはスピードを上げて走り始めた。
    もう後のトラックは、見えないし、知らない。

    その後もトラックは、快調に走り続け、ダムシュンを通過し、ヤンパチェンを通過し、ラサ郊外へと入っていった。やっと入ったか、ラサ(拉薩)に。ここまで来るのに、31時間もかかった。
    昨年から行きたくて、しかたなかったラサに、やっと来ることが出来たのだ。
    最後の検問も、何事もなく通過して、トラックはラサ郊外の目的地に着き、僕は2人の運転手にお礼を言って、残りの300元を渡した。

     こうして西寧から、ゴルムド、そしてラサまでの2泊3日、距離にして、約2,000キロを超える移動は、終わりを告げた。やっと着いたぜ、ラサ。嬉しい。